• TOP
  • 言語ラボの特長
  • 言語ラボの特長1

言語ラボの特長

主体的に学びたい人と教える人を結びつけて「参画」の場を設定します。

言語デザイン研究所に所属するメンバーは、日本語教師養成のプロ集団と日本語教育の専門集団の2グループに大別されます。両方を兼ね備えた方もいますが、組織の概要としては、この2つの柱で当研究所を支えています。(法人形態の社団は同志の集まりの意味)

さらに、細部を紹介しますと、教師養成では、検定指導に強い方、実践的な指導に定評のある方に分かれます。また、日本語教育では、プライベート専門から企業向け研修に強い方まで、さまざまなニーズに対応できるバラエティに富んだ人材が集結しています。

学びへの参加の三段階

従来からの参集型教育から主体的に学ぶ参画型教育を目指しています。

当研究所は、皆様の主体的な参加を歓迎いたします。参加(希望)者は、自分から、その場の企画を立案し、それを実施し、自己評価していきます。私たち主催者は、教える人とのマッチングをはかり、共にその場を担い合っていきたいと考えています。

私たちは、既成のカリキュラムによる講座を否定するわけではありません。ただ、受け身ではなく、「こんな授業を受けたい」「この目標達成のために学びたい」など、一人でも、グループでも企画しても何ら問題はありません。それ自体が自立した進め方なのです。

私たちは、
学びたい人と
教えたい人を
結びつけたいと思っています。

  • 学びたい人、教えたい人。どちらの方もお待ちしています。

日本語教育に経験豊富なプロの集団。さまざまなコラボレーションの可能性を探ります。

学びたい人と教えたい人の仲立ちをするのが私たち言語デザイン研究所です。それは,個人のレベルを超えて,大学・大学院,あるいは専門学校・各種学校,さらには,研究所・公的機関,企業・団体などからの要請にも応えていきたいと思っています。

それは,国内のことにとどまらず,海外からの要請にも応じていきたいと思っています。多文化社会の経験を持つ海外との交流,提携は,これからの日本社会のあるべき姿を考える上で,貴重な示唆を与えてくれることでしょう。

日本語教師教育

  • 日本語教育能力検定試験の受験指導
  • 大学生への資格取得支援
  • 専門学校・各種学校での検定対策
  • ノンネイティブ教師への研修

Etc.

日本語教育

  • 日本語能力試験の受験指導
  • 日本留学試験の受験指導
  • 企業の外国人社員への日本語教育
  • 研修者への受託教育
  • 在日外国人あるいはその家族への日本語指導
  • 児童・生徒への日本語指導

Etc.

  • 授業の形態は、個人指導からグループ、講演形式までご相談に応じています。

教師中心から学習者中心へ 「教え」から「学び」への転換

学習をどう見るかについて、行動主義の考えがよく知られています。刺激と反応の連合を学習の基礎とみなすので連合説ともいわれます。その後、学習を個人の認知過程に焦点化して捉えていこうとする認知科学のパラダイムが生まれました。

さらに、1990年になって、社会的、文化的文脈の中で捉えようとする従来の認知科学のパラダイムに代わる新しいパラダイムにシフトしてきました。学習とは個人の内的プロセスよりも外界、コミュニティの相互干渉の中に埋め込まれているとみる考え方です。

教授法についても、その開発競争が行き詰まり、「いかに教えるか」よりも学習者は「いかに学んでいるか」ということに関心がシフトしました。状況的、協働的な学習観とともに、教育環境のデザインに新しい方向性を与えるものとして期待されています。

現場の実践力を超えて 教育環境デザイン、さらには言語デザインへ

よく教師の実践力ということが話題になり、雑誌の特集などで取りあげられることが多くなっています。しかし、これからの教師に求められるものは、授業の実践ばかりではなく、あらゆる状況の中でのバランス感覚に優れたデザイン力だと思います。

教育環境デザインというと何か特別なもののような気がしますが、学習者のスタイル、例えば、内向、外向などの適性を見極める、指示の仕方を変える、指導の形態を変える、あるいは席替えをするなど、個に応じて柔軟に対応していくことでもあります。

言語をデザインするというイメージに近いものに、言語計画、言語政策があります。ここでは深入りをしないで、大まかなイメージをお伝えしたいと思います。まず、学習者(検定志望でも、日本語教育でも)のニーズを分析して、コース・デザインを行います。

そして、それらを包括した教育環境デザイン、さらには地域社会、コミュニティという大きなステージで捉える言語デザイン、という3段階があるということです。将来、移民労働者への日本語教育が必要になったときに、一様に扱ってはいけないということです。